「フライパンの詩(うた)」
御崎喜嗣・静香ご夫妻 ホテルニュー長崎レストランハイドレンジャ調理部長 |
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調理と料理はどう違うのだろうか。
強いて言えば、調理は包丁を用いることで、料理はその他に煮炊きなどの加熱をする部分までを含み、さらには完成品自体も表すようだ。“魚を調理した”と言えば、三枚おろしにするようなことで、決して“煮魚”にはなっていないから・・・。
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こうして一応の解答を出したつもりでいると、喜嗣さんの名刺には「調理部課長」とある。一般的には「料理長」だから、ここでも調理と料理の区別がつかなくなってしまう。
「でも、調理・料理は理屈ではありません。じっと先輩の動きを“見る”ことなんです」
若い頃、美容師になるつもりだった喜嗣さんは、アルバイト先のホテルの厨房で皿洗いをするうちに、この道に入ったとか。
「ある時、キャベツを切らせてもらったら合格しました。次に料理を作ってみろと言われ、それまで見ていたまま作ると、これも一発で合格しました。いつも側で動きを見ていたのがよかったんですね」
静香さんとは、福岡のホテル時代に知り合われたそうですが、決め手は何だったでしょうか。
「ええ、そのころ私はフロント係で主人が厨房にいまして、いつも見掛けてましたから・・・」
「やはり“見る”のが大切なんですね、男女も」
そう言って喜嗣さんはひとしきり笑ってから、
「結婚を考えている時に母が亡くなり、体の不自由な父の面倒をみるため私は長崎に戻ることにしたんです。正直なところ、彼女とのことは諦めるつもりでした」と話す。そんな事情を承知で静香さんはついて来たのだとか。
「字は違いますが“看る”って勉強なんですね。主人が先輩の仕事を“見る”のと同じかもしれません」と、静香さんは噛み締めるように語る。
喜嗣さんは、2000年にドイツで開催された4年に一度の『料理オリンピック』の日本代表6人の中に選ばれ、世界の32ヶ国から参加した人達を相手に銀と銅のメダルを獲得している。
「母親の料理が根底にあるんです。お袋の味です」
「主人はいつもそう言います。ですから私も3人の子供のために“お袋の味”を伝えたいですね」
今日も、喜嗣さんのフライパンがお客さんの舌を魅了し、静香さんのフライパンが“おふくろの味”を生み出していることだろう。
2005年10月vol.12「よろしく先輩5」

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「白い恋人たち」
前田健二・光江ご夫妻 ステージ21
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1871年(明治4年)に「士農工商四民の斬髪勝手たるべき事」という太政官布告が出された。世に言う『断髪令』である。こうして、丁髷(ちょんまげ)を結う“元結い”から“散髪”の時代が到来する。ものの本によれば、一般的に滋賀県から東では「床屋」だが、以西では「散髪屋」と呼ぶらしい。ただ、九州では混用される地域もあるようで、ここ長崎では「床屋」が多いと聞く。
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ところがこの店は“STAGE21”とだけある。さぞや若い経営者の方だろうと思っていたら、ご主人の健二さんは来年還暦を迎えるとのこと。
随分モダンな名前ですね。
「ええ、実はこれなんです」健二さんが鏡に向かってスイッチを入れると、なんとその向こうにテレビが映った。お客さんが散髪をしながら見ることができる仕掛け。その商品に由来する大阪の先輩の店名を引き継いだのだそうだ。
ところで、お二人はお見合い結婚だそうですが。
「はい。見合いをして6ヶ月と1週間で結婚しました。でも主人はAB型で繊細、私はO型でスッキリタイプ。性格が正反対ですから、喧嘩も多いですよ」と光江さん。
手先の器用な健二さんは裁縫もするという。
「だけど、夫婦は正反対の性格のほうがいいと思いますね」そう言って光江さんが店の表を指差した。理髪店のクルクル回る看板だった。赤は動脈、青は静脈、そして白が包帯だとか。
「例えて言えば、男性的な私が赤で、細かい主人が青じゃないかしら」
それじゃ、白は。
「さあ、正反対の二人の間の“溝”でしょうか…」光江さんは考え込む振りをし、物静かな健二さんが照れくさそうにほほ笑む。
「いつも一緒だから、接着剤か」
「そう、24時間一緒。たまに私が街に出掛けると、必ず携帯電話が鳴るんです。少しでも離れてると、お互いに不安なんですよ。一緒にいるのが当たり前になってますからね」と光江さん。
なるほど、それじゃ休日も御一緒ですね。
「盆休みと正月はあちこち旅行しますよ」
「主人が車好きで、今年も盆休みに石川県の『松井秀喜記念館』に行ったよ、…ね。」
二人は秘密を共有する子供みたいに見詰め合った。
なんだ、白は二人を結ぶ“愛情”って言いたかったんですね。
2005年9月vol.11「よろしく先輩4」

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「魔法の階段」
竹山 鉄郎・満子ご夫妻 諏訪の杜 たけやま |
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「出会った頃は、一年のうち360日はデートしてましたね」
一歳年上の満子さんは御主人と顔を見合わせて、明るく、そしてとても照れくさそうに笑った。鉄郎さんも、店の片隅にしつらえた瀟洒なカウンター越しに、まるで30数年前の青春時代に戻ったような目で、顔を赤らめている。
二人は共通の友人を通して知り合った。以来、ほとんど毎日デートをしていたと言うから驚きだ。
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スタンダールの『結晶作用』を思い出す。冬場、ザルツブルグの塩坑の奥深くに投げ込まれた小枝が、寒さでダイヤモンドのように結晶を付けてきらめいている。恋をすると、平凡な相手なのに美しく見える。その例えである。つまり“あばたもえくぼ”だ。
知り合った当時、御主人はサラリーマンだった。それが、23歳の時、三代目として稼業を継ぐことになった。
「その時“私は酒屋さんに嫁ぐんだな”って、漠然とですが予感がしてましたね」
では、プロポーズはどちらから、どんな言葉だったのでしょう。
「特に・・・」ご主人は坊主頭を撫で、二人は見詰め合った。6年の交際で、お互いよく解っていたし、改めてプロポーズをする必要はなかったようだ。
それなら夫婦喧嘩などないのかと思うと、「とんでもない。毎日、最低でも2度くらいはやりますよ」と鉄郎さん。
おや、小枝の結晶は解けてしまったのか・・・。
「でも、お客様商売ですから嫌な表情で店には出られません」満子さんも真顔になって、「だけど二階から下りて店に来ると、元に戻ってるんです」
「夫婦ですからね。自分が考えているようなことは相手も考えているんです。」鉄郎さんは言う。
「そう。だからプロポーズと同じで、仲直りの言葉はいらないんです」
どういうことなんですか。
「階段を下りる間に自分の心を入れ替えるんです。すると相手も同じ気持ちになる」満子さんは笑い、
「だから、大喧嘩をした記憶なんて、ねェ・・・」
鉄郎さんも黙ってにこやかにうなづいている。
夫婦円満の秘訣は、住居と店を峻別する“階段”
の存在にあった。それが二人の間で暗黙のうちに培われた人生の知恵だったのだ。
50歳を過ぎたこの二人。どうやら小枝の結晶は生涯解けそうにないようだ。
2005年8月vol.10「よろしく先輩3」

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「夢のあとさき」
濱 美智広・鈴玉ご夫妻 中華料理 華豊 代表
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熊本に中華料理店を営む家族があった。その店の長男と懇意にしていた男子短大生が料理に関心を持ち、いつしか同居するようになる。家には同じ短大に通う同学年の娘がいた。
「世間体があるから入籍しなさい」娘の母親に諭され、二人は結婚。娘はすでに店を手伝うことになっており、男も市役所に採用が決まっていた。
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「公務員と結婚できたんですから、生活は安定しますよね」奥さんの鈴玉さんはとても嬉しかったと言う。ところがご主人の美智広さんは、そのまま店を手伝うと言い出した。「自分の人生は自分が主役でいたいと思いましてね」当時の心境を振り返る。
しかし、五年後、奥さんは再びご主人の思いがけない言葉を耳にする。身寄りも何もない長崎の南高来・加津佐町で独立すると言うのだ。「家族の中の歯車の一つだと気付きまして。だから皿・鉢を義兄から貰い、僅かな積立をはたいてジャガ芋畑の真ん中にポツンと店を開いたんです」
開店当初は農家の方々を中心にお客はどうにか来てくれていた。
「それが四月下旬にパッタリ途絶えましてね。後で解ったんですが、農家は収穫期で忙しかったんです」と、奥さんは笑う。
客足が戻り、辺りの生活に慣れ始めた頃、また転機が訪れた。
「深夜に利用してくださる方々が増え、次第に世間話や将棋をする溜り場になって、正直なところ大変でした。主役はお客様だったんですね」御主人は苦笑い。
奥さんは体調を壊したと言う。三人の子供に構う暇もない、言い争いの日々。それを見兼ねた御主人の両親が、役所を辞めて手伝ってくれることになった。「お陰で地域の人たちが“仲間”として認めて下さったんです」奥さんは感謝を忘れない。
地元の人々や肉親に支えられた二人は、数年前に店舗を200人近く収容できるビルに建て替えた。今では、長女と婿そして長男が店を手伝っている。
「子供たちが“親の働く姿がなによりの財産だから”と言ってくれたときは・・・なぁ」
御主人からそう投げ掛けられた奥さんは「この主人と一緒に、この仕事ができたからよかったんです。どちらが欠けてもダメだったでしょうね」瞼から何かを振り払うように唇を結んだ。
二人は今年で結婚30周年、そして独立開業25周年の節目を迎えた。
2005年7月vol.9「よろしく先輩2」

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「二つの愛」
江川 和政・貴子ご夫妻 (有)印章のえがわ |
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「印鑑は芸術なんですよ」開口一番、ご主人の江川和政さんは作業の手を休めずにポツリと語った。
「それが、最近はパソコンの普及で、誰でも簡単に作れるようになりましたからね。大切な技術が失われていくようで・・・」ご主人の言葉を受けて、奥様の貴子さんがそう話す。
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お二人の結婚は昭和45年。広島で大手旅行 代理店に勤めていた貴子さんが転勤を命じられ、長崎に赴任して間もない頃だった。
「母が長崎出身でしたから一緒に来たんです。そして同僚の紹介で主人と知り合いました」市内の印鑑店に勤めるご主人と共働きを続けました。5年後、ご主人は独立開業。「娘が生まれましたが、母に面倒を見てもらい共働きを続けました。ところが…」貴子さんは遠くを見るように「昭和54年に母が亡くなり、子育てのために私は退職して主人の手伝いをするようになりました」。
今年で結婚35周年、これまでに何か波風のような出来事は?「特に何もなかったですね…」貴子さんがご主人に視線を向けると、「私は釣りバカでよく五島沖に船釣りをしに行くんですが…その波風くらいでしょうね」と大笑い。「そう。休日になると私はいつも釣り未亡人なんです」と、ひとしきり笑いを広げてから、貴子さんは真顔になって続ける。
「こんな調子の主人ですけれど母が亡くなる一週間ほど前から、母の印鑑を彫り始めましてね。もう、使うあてなんてないのに…」すると、ご主人は軽い咳払いを残して、そそくさと出かけていった。「主人は、その印鑑を母の棺に入れてくれたんです」貴子さんは神妙に、しかし淡々と語る。
では、貴子さんに、これから結婚される方々への一言を…。
「せめて一本だけでも手彫りのきちんとした印鑑を持っていただきたいですね。そして、婚姻届に、人生の大切な事にしっかり確認して使ってほしいものです」
2005年6月vol.8「よろしく先輩1」

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