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寺田虎彦の随筆に「茶碗の湯」があります。内容はさておき、子供心に「茶碗」だから“湯”ではなく“茶”ではないかと思ったものです。でもよく考えてみますと、お茶を飲むのに“湯呑み”、ご飯を食べるのに“茶碗”などと表現します。日本語は難しいんですね。ちなみに、木製のものは「椀」で陶磁器のものは「碗」と書きますが、どちらも俗字で、正しくは共に「盌」だとか。
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隆三さんは体育の先生だったそうですが、焼き物を作りだしたのはどんな経緯からなんですか。
「昔、学校が荒廃していた時期がありましてね、美術の先生と一緒に情操教育のために始めたんです」
それが次第に高じて、毎年、卒業生全員に手作りの湯呑みを贈るようになったのだそうです。
ところで、芳子さんと知り合ったのはどこなんでしょう。
「私は同じ学校の看護師をしていまして、保健室に主人がよく来てましてね・・・。なかなか誠実そうな人でしたから」
なるほど、あとは訊くだけヤボでしょうね。すると家でも学校でも一緒に過ごせたわけですね。
「主人はバレーボール部の顧問をしてましたから、ほとんど留守でしたよ。誠実さも結婚してしまうと消えてしまいましたし。そんなものなんでしょうね夫婦なんて」と芳子さんは微笑みます。でも、隆三さんはマメな人だそうで、料理をしたりお茶を淹れたりしてくれるのだと、補足を忘れません。なるほど、言葉とは裏腹な愛情がうかがえます。粘土をこねる指先が少女のようですもの。
「私は仲人をするたびに、“ お互いに好きで一緒になったのだから、これから先の人生でどんなことがあっても、共にスタートした結果であることを忘れないようにしなければ”と、話すんですよ」隆三さんは、そっと芳子さんの湯呑みにお茶を注ぎたしました。
今は二人で陶芸教室を開いていますが、奥さんは10年くらい前に始めたのだそうですね。
「粘土は言うことをきかないから苦手だったんです」
「それなのに、芳子が感性は私より優れてますよ」隆三さんは素直な表情で話します。“亭主の好きな赤烏帽子”だったものが、良い意味で“庇を貸して母屋を取られる”格好になったわけですね。これもまた面白いではありませんか。
そんな隆三さんのもとには、今でも卒業生から“先生に貰った湯呑み茶碗が割れてしまいました”と、新しいものを催促する連絡が来るのだそうです。嬉しいことですね。
「ええ。なかには、親子で私の湯呑みを持っている生徒もいるんですから、時の流れを感じますよ」隆三さんは相好を崩します。数多くの卒業生たちが“マイ湯呑み”として使ってくれているんですものね。
私たちは、日常で使用する茶碗や湯のみが誰のものか決まっているケースが多いですよね。じつはこれ、世界でも比較的珍しい日本の食文化の特徴なんです。“属人器”と呼びます。そう言えば、長期出張から戻った知人が、自分の茶碗が食器棚の最奥に押し込められていたと嘆いてましたね。不在がちな皆さん、たまには食器棚を覗いてみてはいかがですか。
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2008年3月vol.42「よろしく先輩35」

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「忍び会う恋」
中村 耕一・智美ご夫妻 中村輪業社長
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「躑躅生けて その陰に干鱈 割く女」
これは、滋賀県甲賀郡(現・湖南市)の真明寺の句碑にある松尾芭蕉の句です。裏山から採って来たツツジを活けて、そのかたわらで当時は安い魚であった干鱈を、黙々と割いている、素朴な女性の姿が想像されますね。
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福岡の会社仲間と沖縄旅行に出掛けた耕一さん。そこで知り合ったのが、大学生の女性グループにいた智美さん。はた目がありますから、夜中にこっそり抜け駆けをして車でデート。
まるで青春ドラマそのままですね。
「とんでもない。彼女の両親からは猛反対を受けましたよ」と、耕一さんはつい昨日のことのように厳しい目で話します。
「私は滋賀県・甲賀の出身なんですが、両親には九州の男性は男尊女卑のイメージが強かったんです」智美さんは表情を変えず、「結婚どころか、交際すら認めてもらえませんでした」淡々と語りました。
「彼女の実家に押しかけて、真冬の玄関先で父親と一時間半ほど話し、さらに翌日は母親と話し・・・、寒かったですよ」
それでやっと許可を得られたわけですね。
「いいえ、彼女が黙って私の背後に回って来たんです」耕一さんは、当時を思い出したように智美さんと視線を合わせました。
こうして二人は、智美さんの卒業と同時に結婚。やっと、いつでも一緒に過ごせるようになって、良かったですね。
「それが、主人は仕事でほとんど家にいなくて、我が家は"妻問い婚"みたいだと思ってます」智美さんは、やはり表情を変えません。
「今、初めて彼女に話しますが、私は自分を一番に考えているんです。そして二番目が社会貢献。家庭は三番目なんです。」耕一さんは男っぽい口調で力説します。
「でも、それでいいと思います。彼が大きくなれば、その大樹に家庭が守られるわけですから・・・。家族が増えて、私は幸せです」
智美さんは健気な女性なんですね。
「彼女には感謝してますよ。私がいなくても家庭を守ってくれていますし、遠い所から嫁いで来たのに、今では私より以上に地域の人々と親しいくらいですから。この変身振りは見事です」
まるで、冒頭に掲げた芭蕉の句にある女性みたいですね。
ところで、芭蕉と言えば一説に忍者であったとも言われています。「奥の細道」の行程や滞在日数などから、どうも単なる俳句作りの旅とは思えないと言うのです。彼のイメージからは想像がつきませんが、だからこそ忍者説があるのでしょう。
そう、智美さんは甲賀の出身でしたね。忍術には土遁(どとん)の術、火遁の術、水遁の術などありますが、これほどまでに耕一さんを惹きつけたのは、“好いとんの術”かもしれません。表情を変えず淡々と話す智美さん、もしや、「くノ一」忍者では。
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2008年2月vol.41「よろしく先輩34」

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「光り輝く」
松永 秀文・智子ご夫妻 (有)MIKUTO工業 社長 |
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代表的な冬の星座に“おおいぬ座”がありますね。その主星が、全天で最も明るいシリウス。
二月中旬ですと、八時から九時ころ南の夜空に目を向けるとすぐに見つけることができます。
古代エジプトでは、季節の始まりを示す星と言われていました。
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玄関ドアを開けると、明るい四人の子供たちが元気よく迎え入れてくれました。そして、部屋の奥には大型犬ボルゾイがいます。
秀文さんは二十八歳、智子さんは二十五歳。ずいぶん早い結婚だったんですね。
「私が二十一歳、彼女が十八歳のときでした」
秀文さんが、とある場所で声をかけたのが交際の始まりだったそうです。
第一印象は、お互いにとても良かったとか。
でも、若い二人のこと。親の反対はなかったのでしょうか。
「それは、別にありませんでした」と、智子さん。
「むしろ、早くしなさいと言われましたね」秀文さんが付け加えました。
まだまだ遊び盛りだったと思いますが、同世代の友達が羨ましくありませんでしたか。
「そう感じたこともありますけど、そのぶん子供は早く手が離れますから」智子さんは話します。
なるほど、長男が今七歳ですから、二人が四十歳前後のときには成人しますものね。
ところで、若い時は互いに情熱がありますからいいでしょうが、子供さんが四人も出来ると感情に変化はありませんか。
「私は特に変わりません」智子さんは首を振り、「うん、何も変わりませんね。ただ私は四人目の子供が出来てから本当の意味で子煩悩になりましたね」秀文さんは、力強くうなずきました。夫婦としてだけでなく、家庭を守る責任が増したのを実感するようになったと言います。
すると、部屋の奥でボルゾイのシャネルが微かに唸りました。
そう、シリウスは連星で、シリウスAとBの二つの星が寄り添って存在しているんです。
それが“おおいぬ座”の主星なのは、まるでこの家族を表現しているみたいですね。ギリシャ語で“光り輝くもの”の意味だそうですから。
きっときょうも、家族六人と一匹は明るく賑やかに輝いているはずですよ。
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2007年9月vol.40「よろしく先輩33」

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「熱き思いに」
栗林 慧・洋子ご夫妻 昆虫写真家
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マグマの熱で、周囲の岩石の組織が変化すると変成岩になります。でも、熱が強すぎたり距離が近すぎると融けてマグマになってしまいます。
ほどよい熱や距離が大切なのは、どこか夫婦関係 にも通じる気がしますね。
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二人は、会社勤めをしていた頃の同僚で、結婚したのは、将来プロの昆虫写真家を目指していた慧さんが二十四歳、洋子さんが二十二歳の時。しかも、知り合って一年も経たないでゴールインしたのだそうです。洋子さんには不安はなかったのでしようか。
「何もありませんでした。将来の事なんて誰にも判らないんですからね。若い時の結婚はいいですよ」
「主人は真面目な人でした。だから迷わず結婚したんです。それは常々、親から言われてましたから」
では、慧さんにはどんな女性に見えたんでしょう。
「まあ・・・、良かったんでしょうね・・・」と、上の空。昆虫の話以外にはあまり関心がないのだそうですから、今日までの人生は洋子さんに振り返って頂きましょうか。
慧さんがプロとして独立したのが三十歳の時。それ以降、洋子さんも慧さんの仕事を通じて大勢の人達と出会うことになったのだそうです。
「結婚するまでの私は、何もせず漫然と暮らしていましたが、主人のヘルプをするようになって人生観が一転しましてね。昔の同級生からは、見違えるほど人が変わったと言われましたよ。そして強くなりましたね。奥さんが強くないと家庭は納まりません
から、この点も良かったですね。分野の違う人達との出会いも多くありましたし、二十二歳から一流の写真を見て来ましたので、人や物を見る目が出来ました・・・。何もかも主人のお陰です」
二人はやがて結婚四十五年になるのだそうで、洋子さんの表現を借りると“コンビ四十五年”です。
「夢は・・・、思えば叶いますよ・・・」
それまで、昆虫の世界に思いを巡らせているのかと思っていた慧さんが、ふと、噛み締めるように話しました。「現実に・・・そうなりましたからね」
そんな慧さんは、洋子さんと対照的に、若い時のまま変わらないのだそうです。変化しない人が、パートナーを大きく変化させて来た訳です。ほどよくマグマに接した石灰岩が、輝く“大理石”に変成するのと同じように。
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2008年1月vol.39「よろしく先輩32」

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「もしも・・・」
波多野 徹・富佐子ご夫妻 波多野アンドパートナーズ会計事務所代表社員税理士 |
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現在使われている複式簿記の基礎はベネチアの商人の記帳法で、1494年にルカ・バチオリという数学者が著書で紹介したことから世界に拡がった物だそうです。その40年前に、ご存じグーテンベルグが活版印刷を発明していましたから、多量に出版出来たんです。それまでは総て手書きで写すしかありませんでしたから、時代が少しずれていたら記帳法は今とはまったく異なっていたかもしれないとか。
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お見合い結婚だそうですが、きっかけは何だったんですか。
「男とはいえ、三十才を目前にしますとね、この年でしなかったら・・・何だか焦りのようなものがあって・・・」徹さんは当時の心境をそう話します。
最近は結婚年齢が高くなっていますが。
「早ければ良い訳ではないでしょうが、子供の事や人生全体を思えば、ある程度は年齢も大切だとおもいますよ」当時二十四才だった富佐子さんは、最近の結婚事情に首を傾げました。
ところで、第一印象はいかがでしたか。
「見合いですので、既に人柄などは聞き及んでましたから、予想通りに真面目な女性でしたね」
「そう。私の方も、朗らかな人だと聞いてましたし、そんな印象を受けました」
お見合いから二ヶ月で結婚が決まり、その二ヶ月後に挙式。スピード婚ですね。
「それが“お見合い”の良いところだと思いますね。人生は何があるか判りませんし、互いに我慢したり譲り合ったりするのは、恋愛結婚でも同じことなんですから」と徹さんは“見合い”の良さを強調します。
二人はもうすぐ結婚三十周年を迎えるそうですが、新聞報道によりますと、最近ある企業が、結婚三十年を迎えた人たちに調査をし、結婚生活を漢字一文字で表してもらったところ『真、和、絆・・・忍・・・愛・・・』などだったとか。さて、二人はどのような文字を思い浮かべますでしょうかね・・・。
と、尋ねかけたところで富佐子さんが席を外しました。すると徹さんがポツリと話しました。
「実は、私と見合のすぐ後に、彼女へ別の話があり、そちらへは妹を紹介したら、そちらが先に婚約になって、ほんの少しタイミングがずれてたら、私も奥さんも人生が変わってたかもしれませんよ。結婚は“込、込”良いことも、そうでないことも。君で幸せだったと旅立てる人生が送りたいですね」ですって。歴史だけでなく、人間個々も“If”という綱を渡って行くんですね。
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2007年12月vol.31「よろしく先輩31」

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